長女の誕生と密室育児と読書三昧:6か月長女とのイタリア3週間二人旅その1

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新米ママの目を輝かせた15年前の体験談

昨日、「自宅を拠点に働くライフスタイルを語る会」と題して、自宅を事務所やサロン、教室として仕事をしている女性たちで集まり、情報交換しました。

そのときお話したことで、0歳の第一子をお持ちのママから
「勇気をいただきました」
と言っていただいた話題があります。

それは、もう15年近く前の、高1長女が生後6か月くらいのとき、長女と二人でイタリアに3週間ほどの旅に出たお話です。

そのママも、以前からご縁のある台湾に行きたいと考えていたのですが、未経験の0歳児を連れた海外遠征に不安を抱えていたとのこと。私の話を聴いて、
「行けそうな気がしてきました。行きます!」
と目を輝かせていらっしゃいました。

15年前の話でも、参考になることがあるのかもしれない。

そんなわけで、何回かに分けて、
6か月長女とイタリア3週間二人旅
のことを書いてみたいと思います。

横浜で核家族での密室育児

私が第一子である長女を授かったのは、2001年のことです。私は27歳でした。

9月11日には、マンハッタンのワールドトレードセンターが自爆テロで崩壊。その数日後に長女を出産した私は、入院中、助産院の個室のテレビが一日中、同時多発テロのニュースで埋め尽くされていたことを思い出します。

妊娠前は東京港区にある夫の社宅から、川崎の職場にかよっていました。

実家の事情で里帰り出産はないことが分かっていたため、夫と二人での育児がしやすいようにと、妊娠中に夫の勤務先があった横浜市中区に引っ越しました。近くには元町商店街や山下公園がありました。

夫は新潟、私は富山の出身です。引っ越して間もないため、ご近所づきあいもなく、昔からの友人知人、家族や親戚もなし。

職場の都合で、出産ギリギリまでフルタイムで働いていたこともあり、出産前に育児サークルや支援センターなどの情報を得ることもできていませんでした。当時の横浜市は、待機児童数日本一でしたが、保育園探しに困るまで、そんなことも知らなかったんです。

その後、市内の助産院で無事に出産しました。

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【当時は流行った「父親がへその緒をカット」する儀式】

出産後は育児休業を取って仕事は休み、やることは育児だけという日々になりました。

私は産後1か月ほど、体調を崩して、ほぼ寝たきり状態でした。当時、夫は朝7時に家を出て帰宅は23時すぎが普通。ときには日付をまたぐこともありました。

子育てする人は、私しかいません。

夫も長時間労働のなか、私が少しでも楽なようにと努力してくれましたが、気をいつ失ってもおかしくないと感じるほど、本当に辛い毎日でした。

産後2か月に入り、私の体調も少し回復してきたので、たまには気分転換を……と思い、ある日、娘を抱っこして近所の商店街にあるカフェに出かけました。私は学生の頃からずっと、カフェめぐりが趣味で、ゆったりとした時間と快適な空間、美味しいコーヒーを楽しむ時間を愛好していたのです。

通りに面したオープンカフェで、久しぶりのコーヒーを口にしたとき、後ろにいた若い女性二人から
「チっ」
と舌打ちが聞こえ、
「こんなところに、ガキつれてくるなよ」
「せっかくの雰囲気だいなしだよね」
と私にしっかり聞こえるボリュームで会話がかわされていました。

15年前は、今ほど「子育て外出」への理解がなく、「子育て中ならしばらくは外食や買い物は我慢して当然。母親なんだから」という感じだったと思います。私自身、面窶れしていて、おしゃれな商店街の雰囲気を壊していたのでしょう。

私はいたたまれなくなり、コーヒーを残して席をたちました。

その後も、子供連れで乗ろうとしたバスで乗車拒否に会うなどイヤな経験が重なり、「気晴らしの外出」が怖くなりました。

それなら一人できる気晴らしをと、妊娠前に好きだったランニングを再開しようしました。夫が休みの週末に、授乳の合間を狙って、公園でジョギングすることにしました。しかし、授乳中のバストはランニングの振動でとても痛み、走れるものではありません。このときは、夕暮れの山下公園で、泣いてしまいました。

「好きだったことが、何もできない。子どもを連れているだけで、冷たい目で見られる。こんなはずじゃなかった」

そう思い詰めた私は、すっかり密室育児状態でした。平日は、狭いアパートで娘と二人きり。授乳、オシメ換え、授乳、オシメ換え、授乳、オシメ換え……という生活です。

夜中も授乳のために何回も起き、疲労はいつでもピーク。また娘はよく、噴水のように乳を吐きました。着替えさせ、布団や自分の衣類を洗濯して…とやることはいくらでもあり、掃除には手が回らず、家の中はどんどん乱れ、汚れていきました。

避難先は子供のころから大好きだった場所

そんは毎日を過ごしていた私が、救いを求めた避難先は……

図書館

でした。子どものときから読書が好きだった私にとって、図書館は心安らぐ場所でした。知識の海や広い世界へつながる、どこでもドアのような存在でした。

家にこもっているくらいなら、図書館にこもろうと考えたのです。

自宅からは徒歩で40分ほどかかりましたが、産後の運動にもなり一石二鳥と考え、平日の休館日以外、火曜日から金曜日まで毎日、ベビーカーを押して、図書館に通いました。

マザーズバッグには、おにぎりとお茶、紙おむつを詰めて、朝から図書館に向かいます。開館と同時に入館し、向かう先は

授乳室

でした。

授乳室には、我が家よりも大きなベビーベッドがあり、ゆったりと授乳できるソファがあり、ほとんどの時間、私以外に利用する人もいません。窓からは隣の公園の木々の木漏れ日が差しこみ、自宅と違い掃除も万全。とても快適な空間でした。

授乳、オシメ換え、読書、授乳、オシメ換え、読書……眠くなったらうたた寝。娘が目を冷ませば、隣の公園に散歩に行くこともありました。

そして夕方になったら、また家に向かって歩きます。

読書のジャンルは小説もあればコラムやドキュメンタリーも、料理本、雑誌など手当たり次第でした。なにせ時間はたっぷりあります。

また、妊娠中の職場で、出産してから町中で、自分の存在意義や価値を見失い、劣等感に苛まれていた私は、

「仕事を持つ母として、これからどうやって、生きていけばよいのか」

と、子どもを持つ女性たちの育児論や子育てエッセイなども読み漁っていました。

私はこの頃のことを思うと、吉川英治の小説『宮本武蔵』を思い出します。

この小説には、乱暴ものだった18歳の武蔵(たけぞう)が、沢庵和尚によって姫路城に幽閉されるときに
「書物はいくらでも見よ。古の名僧は、大蔵へ入って万巻を読み、そこを出るたびに、少しずつ心の眼をひらいたという。おぬしもこの暗黒の一室を、母の胎内と思い、生まれ出る支度をしておくがよい。」
というシーンがあります。

その後、3年間、武蔵は書を読んで過ごし、出てきたときには文武の道を探求するものとして「宮本武蔵(むさし)」の名で生きることになるのです。

私も人生という道に迷いながら、授乳室にこもって読書に打ち込むこと約3か月。

長女が4か月に入ろうという時に、1冊の本と運命的な出会いを果たします。

つづく

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